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超一流と競い成長

沖縄を語るー次代への伝言

我喜屋 優さん(63) 興南学園理事長

 

超一流と競い成長

本土と対等 未来に目を

18歳の少年は、あこがれの地、甲子園の土を踏んだ。記者の質問は「日の丸をどう思うか」「沖縄県民は英語を話すのか」だった。

興南旋風ー。1968年夏、米施政権下からパスポートで海を渡った球児が、県勢初のベスト4に進出した。

主将として快進撃をけん引しながら、違和感をぬぐえなかった。

「感じたのは同情、半官びいき。本土と同じ目線の応援ではなかった」

42年後の2010年春、選抜大会の最終日。監督として宙に舞った。夏の選手権大会でも、県民は同じ光景に歓喜した。

実はその36年前にも全国制覇を果たしていた。復帰2年後の1974年。北海道で社会人野球の主力として活躍し、都市対抗大会で優勝した。

「甲子園ボーイが内地でどこまでやれるか。そんな視線を感じながら、結果を出せた」。球児、社会人選手、監督として、沖縄球界の新たな扉をこじ開けた。

最南端の県に生まれ、最北端で社会人生活を過ごした。何が見えてきたのか。

「歴史的に薩摩やヤマトに踏みにじられ、悲惨な地上戦を体験したウチナーンチュは、高校球児に『ヤマトに負けるな』の思いを託してきた」「だからこそオジー、オバーが、興南の優勝を泣くほど喜んでくれたと思う」

6.23。慰霊の日に旧玉城村で生まれた。姉は沖縄戦で亡くなった。両親は戦争を多く語らない。遺族年金も長年、受給しなかった。「本当につらい体験は話せない。そういうことだったんでしょう」

野球を通じ、ウチナーンチュが道を切り開く露払いをしてきた自負もある。

「野球でも経済でも沖縄と本土はもう対等。同情と劣等感の時代は終わった」

興南学園の理事長として、沖縄の未来を担う若者を育てる立場になった。生徒の振る舞いに、不安を感じることがある。

「沖縄の心とは何か。日本一の『守礼の心』だ。それが失われていないか」

両親、祖父母、ご先祖を敬い、地域社会で周りの大人たちに礼節を持って接する。そんな子どもが減っていないか。

親が必要以上に子どもにかまい、先回りして準備する家庭環境は健全なのか。

「ディスポート」ー。港を離れるという意味の座右の銘だ。本土や海外で己を磨き、沖縄を引っ張るリーダーが増えてほしい。そんな思いを込める。

「海の向こうに、どの分野でも超一流がいる。県外で通用する競争力は、彼らとの出会いで磨かれる」。10代から全国の強豪と闘い続けた実感だ。

(政経部・吉田央)

 

2014年 6月 9日  沖縄タイムス